なんだかんだで、やっぱりエログロ趣味の美人日本画家から、目が離せない!・・・自傷系アーティストのしたたかな戦略と矛盾、そして未来~「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」横浜美術館~
横浜美術館で開催されている「松井冬子展ー世界中の子と友達になれるー」に行ってきました。この「めのおかしブログ」で取り上げる映画の嗜好から、ボクが”松井冬子”が好きなことを推測するのは容易いことだと思います。勿論、彼女の作品そのものが好きということもありますが、梅図かずおのマンガ、もしくは、横溝正史の小説から抜けたしたような濃い(化粧だけでなく存在そのものが!)キャラの方に強く惹かれてしまうのであります。
松井冬子という画家について語る際に、その”美貌”を無視することは出来ません。モデル並みのスレンダーな長身、キリっとした美しい顔だち・・・妙な眼力の強さは、鳥居みゆきに通じる”イチャッテル”系の美人に共通のものを感じさせます。基本的にボクが見たことのある松井冬子は、何らかのメディアに出ているときだから、見られることを意識していて当たり前ではあるのですが・・・常に(それは工房で絵を描いている時さえ!)バッチリと濃い化粧をしているという”気合い”の入り様は「ナルシシズム」を強く感じさせます。ナチュラルさや自然体とは逆で、自分の美しさを最大限の効力を発揮する手管を知り尽くしているようで・・・いい意味で”素人”の匂いを感じられないのです。
女性の髪の長さというのは、その女性がどれだけ「女」を意識しているかを示すところもあると思うのですが・・・松井冬子は長い髪をも戦略的に使い分けているようです。着物のときには、様々なスタイルのアップされているのですが、どの着物姿の写真を見ても彼女の佇まいは、まるで「銀座のママ」・・・記者会見や公の場、または、お偉い先生(美大教授などの男性に限り!)との対談の「これぞ!」という機会には、必ず着物姿というのも、彼女のセルフ・プロデュース戦略なのでしょうか?批評家、画廊、アートコレクター、美大教授などの美術界を動かす”オジ様”が”イチコロ”になるのも納得なのであります。
洋装のときには、名古屋巻だったり、日本人女性らしいロングだったり・・・叶姉妹の美香さんを思わせるような”ゴージャス系”。ファッションモデルとしてイブニングドレスを着たときには、いかにも「お金がかかりそうな女」風なのにも関わらず・・・女性向けの取材や女性問題を扱う大学教授との対談のときには、ポニーテールで比較的お化粧も薄めで、(彼女としては)清楚なイメージにするという”あざとさ”を覗かせているのも素敵です!
「美貌を武器にする、したたかな美人画家」というだけでも、ボクには十分に面白い存在ではあるのですが・・・松井冬子の描く痛みを感じさせるグロテスクな日本画は、彼女の美貌と相まって作品以上の妖気を感じさせてしまうのです。日本画技法を独自で研究/再現して現代アートとして日本画の可能性を切り開いた・・・のかもしれないど、題材としている世界観はサブカル系の不思議ちゃんの好みそうな「エログロ趣味」で、お世辞にも”上品”とは言えない「イロもの」であることは否定できません。容姿に恵まれない女性(失礼!)が、こんな作品ばかりを描いていたら、ただただ恐ろしいだけ・・・女性からの共感も、美術関係の男性の注目も、これほど集めることはなかったでしょう。
松井冬子は、女子美術短期大学を卒業後、四浪までして東京芸術大学に入学しています。当初は油絵専攻だったようですが、後に日本画専攻に変更します。確かに彼女の描く人物が、日本画というより石膏デッサンのような印象も与えるのは、ベースとなっている油絵専攻での基礎があるからでしょうか・・・。ただ、彼女が油絵専攻のままであったら、耽美派の画家やイラストレーターのひとりとして埋もれてしまっていたかもしれません。彼女はインタビューなどで「エッジが効いている」という表現をよく使うのですが、そのような「感性」に依存したクリエーションというのは、自分の「趣味嗜好」の再現ということが多かったりします。「絹本」「薄描き」「裏彩色」などの日本画の伝統的な技法によって、単に「感性」に頼っているのではなく・・・絵の存在そのものにアカデミックな物語性を生み、創造過程に深みを感じさせることにもなっているのです。
美貌は世間の注目を集めますが、同時に、その美貌ゆえ、厳しい目で見られることもあります。それを打ちのめすように、松井冬子は女性としては初めて東京芸術大学の日本画専攻の博士号を取得します。アカデミックな学位を持つことは、誰でも納得する「箔付け」となり・・・「美人だから」という批判の枕言葉を封じることが出来るのですから「あっぱれ」であります。そのような「箔付け」の上塗りというのは、基本的に美人なのに、さらに常にきっちりと化粧する彼女のスタンスと似ているような気がしてしまうのです。それは、彼女の周到な「痛み」の表現にも通じるところがあります。「これでもか〜!」と、くどいほど上塗りして過剰に表現してしまうのは・・・強い性(さが)を感じてしまいます。 - See more at:
虫一匹から髪一本まで、細かに描き込まれた執念の「超絶技巧」は、松井冬子の人としての”几帳面さ”と”真面目さ”を表しているように思います。下絵を何度も描いて絹本に写すというのは、筆入れが一発勝負の日本画としては一般的な行程ではあるのですが・・・構図や対象物の大きさや比率を、まるでコンピューターグラフィックスの過程のように、何度も何度も試行錯誤して作り込んでいく彼女の忍耐力と几帳面さには、ただ敬服するしかありません。「感性」に頼らない真摯さは、まさに「匠の世界」の人であります。また、内蔵などのリアリティを追求するあまり、鼠や子牛を実際に解剖してスケッチをするという生真面目さもエグ過ぎてゾッとするほどです。
暴力によって鼓膜を傷つけられた経験を持つと公言している松井冬子・・・どれほど画家自身が哲学的に解説しようとも、仏教的な思わせぶりなタイトルを付けようとも、”意図的”に痛みを感じさせようとしている作品というのは、結局のところ”エログロ好き”という汚名(?)からは逃れられないのかもしれません。彼女が日本画専攻に転向したきっかけとなったという”河鍋暁斎”にしても、無惨絵の”月岡芳年”や”甲斐庄楠音”なども、その根底にあるのは”まがまがしい悪趣味”なのですから・・・。海外であれば、写真家のJ・W・ウィトキンの生理的限界を超える妖しさ、マーク・ライデンの”肉”への執着など、いわゆるサブカル好みの嗜好である気がします。上野千鶴子氏曰く・・・女性のジェンダー化した痛みを表現している「自傷系アート」という分類をするならば、フリーダ・カーロに通じるのかもしれません。
松井冬子の画家としてのキャリアに幸運だったのは・・・ゲイイラストレーターやエログロ写真を扱っていた金持ちのボンボン(16歳からアートコレクター)の道楽(?)のような「成山画廊」によって見出されたということかもしれません。2005年3月から4月に開催された初めての個展の前後から、あらゆる媒体へ「美人日本画家」として強烈にプッシュして、大々的に売り出してくれたのですから・・・。また、成山画廊にとっても”松井冬子”を抱える画廊として美術界のステイタスを得たわけで・・・まさに、お互いに”WIN WIN”の理想的な画家と画廊の関係とも言えるのであります。
2009年5月(?)に、松井冬子は東京大学の科学者(特任助教)の男性と結婚されました。結婚式の引き出物が東大と芸大の大学饅頭だったそうで、一部のゲストには”ドン引き”されたという噂もあったりなかったり・・・「肩書き好き」という「素」が、露呈してしまったようです。男性不信とも受け取れる自傷的なイメージを崇拝していた女性ファンにとっては「あなたもフツーの女だったね」と、裏切りに感じられたかもしれません。もしくは「さすが冬子さま~、東大の科学者先生と結婚なんて”らしい”わぁ~!」なのでしょうか?いずれにしても、自分の痛みを作品のテーマにしてきた松井冬子にとって、俗にいう「女性としての幸せ」が、今後どのように作品に影響していくかは、とても気になるところです。
横浜美術館での展覧会には、結婚後に描かれた作品も数点展示されていました。以前よりも、画面は全体的に明るく、ポジティブな印象を感じさせました。展覧会の出口近く、最後に展示されていたのは、トンボが孵化する瞬間を捉えた「生まれる」というタイトルの小さな絵・・・お子さまが誕生したというニュースは聞きませんが、明らかに彼女は次の人生のステージへ移行しているのかもしれません。ひとりの女性としてみた場合、あれほど痛みを訴えていたのに、随分と心が浄化されたんだと・・・涙が出そうであります。
しかし・・・”松井冬子”という「キャラ」のファンとしては、これからの彼女の人生にトンデモナイ波乱が起きることを願ってしまうヨコシマな自分もいるのです。
東大教授夫人としての幸せな結婚生活を送りながら、たわいもない花や昆虫を描くだけの松井冬子は、あまりにも面白くありません。「事実は小説より奇なり」を地で行くような、おどろおどろしい奇行を、ボクは心の隅で期待してしまうのです。例えば、何らかの理由で彼女がその美貌を失うようなことが起こったら・・・「美への執着」を感じさせる女の情念の世界へ入り込み、さらなる「痛み」と「怨念」を昇華していく「化け物」のような存在になってくれるのではないか・・・?
そんな不謹慎な妄想さえも膨らまされずにいられない”松井冬子”から・・・なんだかんだで、やっぱりボクは目が離せないのです。
(2012/2/9)